名人の三代目柳家小さん噺家アーカイブ

名人の三代目柳家小さん
演目解説

英国グラモフォン 明治36年発売

「麻布古川に住む家主の田中幸兵衛」の出だしでお馴染みなので、東京だけの噺かと思われがちであるが、関西では『借家借り』という、元来江戸時代の作であり、豆腐屋・仕立屋・鉄砲鍛冶といった職業の借家人たちが登場する。内容にも『搗屋幸兵衛』『道行幸兵衛』があるが、現在「搗屋」は殆ど演じられていない。正徳二年板『笑眉』掲載の「困ったあいさつ」にヒントを得て作ったものと言われている。ちなみに三代目小さんは、明治大正時代の落語レコードの録音の数は、やたらと多く、それは前の企画のSPレコードの噺家別記録を確認されたし。(都家歌六)

演者基本情報
本名 豊島銀之助 安政4年8月3日~昭和5年11月29日 改名と師匠 柳亭燕賀(明治15~16年頃.燕枝1)
柳亭燕花(明治16年頃.柳枝3)
都川歌太郎(明治19~20年頃.扇歌4)
初代柳家小三治(明治21年6月.小さん2)
三代目柳家小さん(明治28年3月)
出身 未詳
活躍年代 明治15~6年頃~昭和3年
出囃子
演者解説

明治15~16年入門、明治25年真打。

最初常磐津の語り手で、林中門下の家寿太夫を名乗っており、噺の中でもしばしば得意の喉を聞かせた。レコードの中でも大真面目に常磐津のみを吹き込んでいるのがご愛嬌である。小さんは酔っ払いの噺を得意としていたが、自分では一滴もたしなまず、他人に御馳走しては、それを観察し、自らの芸の中に取り入れていたという。

小三治時代は音曲もやったが、後大阪へ修業に行き、帰って来てからメキメキと腕を上げ、ついに“名人小さん”の名声を得た。お得意の『らくだ』などは、彼が大阪修行時代、四代目桂文吾から習得した噺を東京風に練り上げ、それ以来完全に東京へ移植されたものである。彼は落語の地を行くようなそそっかしやで、着せられるままに外套を二枚も羽織って楽屋を出ようとしたとか、足袋を履きっぱなしのまま風呂へ入ったなど、多くの楽しい滑稽な逸話も数多く残している。また地震が大嫌いであった事も有名であった。

しかし、小さんはその芸が名人だったばかりでなく、人情に厚く、後輩の面倒見が大変に良かったので、人格者としても仲間からも非常に尊敬された。小さんの墓は、四代目圓喬と同じ東京目白の雑司ケ谷・法明寺にある。(都家歌六)

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