浮世節家元 立花家橘之助噺家アーカイブ

浮世節家元 立花家橘之助
演目解説

ビクター 昭和初期発売
順に『番(つがい)離れぬ』『三国の富士』『奥山に』の三曲の吹き寄せ。次の唄に移るときの呼吸のよさに感服する。橘之助は多数のレコードを残しているが、どれもすばらしく、すべてが名盤といっても過言でない。このレコードも文句なしの名人芸である。浮世節家元の名声もかくあらんである。三味線の撥さばきが冴える。昭和3年の録音。前作で紹介した『文句入り都々逸』では、橘之助の喋りが入っているので、そちらも聞いていただきたい。(岡田則夫)

演者基本情報
本名 石田美代 慶応4年7月27日~昭和10年6月29日 改名と師匠 立花家橘之助(明治6~7年頃.圓橘2)
出身 東京
活躍年代 明治6~7年頃~昭和10年
出囃子
演者解説

明治6~7年頃入門、明治8年頃真打。
5歳の時義太夫で初高座。その後二代目圓橘の弟子となって橘之助を名乗り、初めて出た席が両国の立花家で、師匠の中入り前に上がり、清元を語ったあとで浮かれ節をやった。大師匠の圓朝にも可愛がられ、真打の看板を上げたのが明治8年、なんと数え年8歳の時であった。とにかく大変な天才で、清元・長唄・常磐津・小唄・端唄・・・何でも自由に弾きこなし、自ら名付けた浮世節の家元となり、楽屋内でも女大名と言われて一世を風靡した。近年、山田五十鈴の演じた『たぬき』はこの人がモデルである。
大正13年に一応引退興行を行ってから、ご亭主の橘ノ圓と共に名古屋の花園町で所帯を持ち、ラジオ放送や名人会の出演などの都度、上京して居た。昭和10年6月10日京都へ引っ越したが、それからたった19日後の6月29日、京都北野神社裏の紙屋川が大水のため氾濫し、崖崩れで住居が押し流され、夫婦ともに哀れ非業の死を遂げたのであった。時に橘之助67歳。夫婦の墓は牛込神楽坂清隆寺にある。(都家歌六)

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