弥太っぺ 三代目蝶花楼馬楽噺家アーカイブ

弥太っぺ 三代目蝶花楼馬楽
演目解説

アメリカン 明治末年頃発売
今でも落語家の社会では、前座に入るや、まず真っ先に覚えされられるのがこの噺で、それから『垂乳根』『金明竹』『道灌』『厄払い』『子褒め』と大概相場は決まっている。だから寄席でも真打は滅多にやらない。昭和電気のSP時代にも殆ど入れた人がなく、東京で三代目三遊亭金馬(昭和7年)、大阪では二代目立花家花橘(昭和4年)の二人位なもの。それを明治の末期(若しくは大正初期)といった時代に、しかもあの奇人変人ぶりで有名な三代目馬楽が入れたのだから、正に珍盤というべきであろう。(都家歌六)

演者基本情報
本名 本間弥太郎 元治元年8月2日~大正3年1月17日 改名と師匠 春風亭千枝(明治20年?.柳枝3)
桂市兵衛(明治30年10月)
三代目蝶花楼馬楽(明治31年5月.小さん3)
出身 東京
活躍年代 明治20年~明治43年
出囃子
演者解説

明治20年?入門、明治38年10月真打。
俗に”弥太っぺ”馬楽又は”狂人馬楽”という。芝口一丁目の袋物屋の伜として生まれ、飲む・打つ・買うの三道楽の度が過ぎて親から勘当され、24歳で蔵前の大師匠といわれた三代目柳枝の門に入り、千枝を名乗る。しかし、師匠をしくじって破門となり、その最中に博打に手を出して監獄行きというのだから、かなり念が入っている。だがその才能を惜しんだ名人三代目小さんが自らの手元に引き取り、馬楽という出世名の三代目を与えた。
『長屋の花見』『蒟蒻問答』『雪てん』『居残り佐平次』などを得意とし、その私生活こそ奇行に満ちていたが、それがそっくりそのまま芸の味わいとして滲みだし、独自の鋭い警句を吐き、詩感に溢れ、当時の作家・文化人たちを引き付けたのであった。晩年若い頃の遊び過ぎが祟って脳を病み、精神病院の入退院の繰り返しの末、浅草区猿若町の実弟の宅にて、妹に見取られつつ、数奇に満ちた51年の生涯の幕を閉じたが、直接の死因は胃癌であったという。(都家歌六)

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