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江戸開府四百年・エノケン生誕百年記念
対談・東京芸能舞台裏

澤田隆治(さわだ たかはる)
昭和8年大阪府生まれ。
神戸大学卒。
東阪企画代表取締役社長、メディアプロデューサー
著書
「私説コメディアン史」(白水社)
「上方芸能列伝」(文藝春秋)
「笑いをつくる〜上方芸能笑いの放送史」(日本放送出版協会) 他
高平哲郎(たかひら てつお)
昭和22年東京都生まれ。
一橋大学卒。
編集活動を中心にテレビ・舞台の構成演出を手がける。
著書
「由利徹が行く」
「スタンダップ・コメディの勉強」
「貴方の思い出」 他


 今年は江戸開府四百年、また「エノケン」の相性で親しまれた喜劇俳優榎本健一生誕百年にあたる。この節目の年に江戸東京にまつわる芸能を網羅し、芸能の舞台を地図で調べることができるCD−ROMブック『江戸東京芸能地図大鑑』が刊行された。歌舞伎・落語・講談・浪曲・浅草オペラ・大道芸など三十ジャンル三百八十六演目をCD四十八枚分を収録したものである。そこで、東京の芸能をファンとして、またスタッフとして見つめ続けたイベントプロデューサー澤田隆治氏と、構成作家_平哲郎氏に対談をお願いした。

 ●エノケン・ロッパ再評価
【澤田】 大衆芸能のジャンルでは、まだまだびっくりするような発見があるんですね。先月、テレビ番組の企画で古い映画のフィルムをコレクションしている方の取材をしたんですけど、その中に昭和二十二年のNHK「お好み演芸会」の公開放送を十六ミリフィルムで撮影したものがあって、並木一路・内海突破の漫才を見たんです。まだテレビのない時代ですからラジオ放送の現場を記録したものなんですね。漫才だけじゃなくてスタッフの様子も映っているんですよ。
【高平】 技術スタッフの本番前の緊張した顔なんかが映っているわけですね。貴重な映像ですね。
【澤田】 こんなものがあったんだってびっくりしました。一路・突破の映像を初めて見ましたが、突破さん、よく動くんですよ。タップダンスを披露するってネタですから。
【高平】 はぁ。
【澤田】 その中にエノケンの十八番『らくだの馬さん』の映画があったんですよ。実は二年前に日本喜劇人協会主催公演の「浅草喜劇祭」で『らくだの馬さん』を私の演出でやってるんです。会長の大村崑さんがくず屋の久六、らくだは谷幹一さん、久六をおどかす丁の目の半次が橋達也さんという配役でした。僕は戦後の大阪で『エノケンのらくだの馬さん』の舞台を見ているんですけど、まだ学生で、面白かったことしか覚えていないんですよ。昭和二十五年に松竹で映画化されているんですけど、松竹にはネガも残ってないという。でも映画のシナリオと舞台の台本があったのでそれを基に台本を作ったんです。だけどエノケンの久六が中村是好のらくだの死体を家主の家へ背負っていってカンカン踊りを踊らせるという有名なシーンでどう動いていたかが台本に書かれていない。谷幹一さんがよく覚えていたのを頼りに、いろんなギャグを加えて『大村崑のらくだの馬さん』を作り上げました。よく受けたのでホッとしましたが、なんと昭和三十二年に撮影した『エノケンのらくだの馬さん』があったんです。見せてもらって驚きました。昭和三十二年というとエノケンさんはすでに脱疽で右足が不自由でしたけど、喜劇人協会の会長として「喜劇まつり」など舞台で大活躍という年です。調べてみると、昭和三十年から三十二年の三年で二十一本も映画に出演しています。東映では上映時間六十分の「東映家庭劇シリーズ」というのを撮っていて、その三本目が『エノケンのらくだの馬さん』だったんです。エノケンの久六と中村是好のらくだの動きは何十回、何百回とやった舞台そのままのコンビネーションで、ほとんどカットを割らずに二人だけなので、そのうまさがよくわかるし、もうめちゃくちゃ面白い。
【高平】 エノケンさんは昭和三十一年に始まった東宝ミュージカルで座長を張っているわけでしょう。『雲の上団五郎一座』とかで。ところが、ぼくはもうすでに面白くないわけです。姉は「この人は面白かったわよ」ってさんざん言うんですけど、何が面白いのか分からないうちに足が悪くなって舞台から遠ざかった。やっぱり千葉信男、三木のり平などNHKテレビの『おいらの町』から出てきた人たちや、八波むと志、有島一郎、あと藤村有弘といった人たちの方がずっとおかしいんですよ。ぼくの世代では。
【澤田】 中学生のころ、戦前のPCL作品の「エノケン映画」をいっぱい見てるんですけど、おもしろかったという記憶が残っています。戦後の「エノケン映画」の評価が低いので自分が幼かったから面白く見ていたのかなと気になっていたので、ビデオになっている「エノケン映画」を見直してみたら、エノケンのエネルギーが画面からあふれてはいるが演技は荒っぽいし、映画のつくりも雑なシーンがいっぱいあって、それが気になって笑いが爆発しないんです。昭和八年ごろのアメリカ映画を見るとレベルは高いし、日本映画だってよく出来ています。PCLが新しい映画会社だったことや、エノケン一座は浅草の松竹座での公演が毎日二回あって、終演後に撮影入りだから、時間に追われた撮影だという事情はあるんでしょうけどね。
 榎本健一さんは少年時代から尾上松之助に憧れてて、映画俳優になろうしたぐらいだし、映画はよくみていた。中でもレビュー映画のコメディアン、エディ・キャンターに憧れてたし似てるって言われてたから、映画を撮るならレビュー映画で、舞台とは違うキャラクターを作りたいという気持ちが強かったんだと思いますよ。だからこなれていない演技に見える。ところが東映の『エノケンのらくだの馬さん』では、「これがエノケンなんだ」と納得します。ナマで見るエノケンの舞台はさぞ面白かったろうなぁ、と初めて思った映画です。

【高平】 三十年代の映画でですか。実はエノケンさんは健在だったというわけですね。
【澤田】 そう。全く死体になりきってるらくだが、一回だけ生きている動きをするところがある。そのタイミングが最高なんです。舞台のギャグそのままなんでしょう。僕は自分がこの芝居を演出しているだけにそのテクニックのすごさがよくわかる。
【高平】 こうやって両手を肩に乗せられて死体と一緒に歩く、あのシーンも見事ですよね。
【澤田】 だから、そういうのを今ごろ発見して、ああ、申し訳なかったなと思いますもの。もっと早くに知っていたら、正しい評価ができたのにって。なんとかこの映画のエノケンをみんなに見せたくていろいろやっているんですけど、なかなかむずかしいですわ。
【高平】 あと古川緑波さんもテレビの時代は面白くなかったですね、ぼくらの世代だと『轟先生』でしょう。この人もすごかったと言って姉が見せるんです。でもぼくにとって面白くないんですよ。もそもそしゃべっていて……。
 後で、三十歳を過ぎて、ビデオで古い映画を見られるようになってからは、確かに面白い作品もありましたね。

【澤田】 面白いと言われたナマの舞台を一度見たかったですね。
【高平】 エノケンさんも生誕百年となると、一緒に仕事をしたといっても、今いる人はみんな晩年しか知りませんよね。内藤陳さんとか財津一郎さんもそうでしょう。全盛期を知っている人が少なくなってしまった。「エノケンは面白かったよ」って昔話ばっかり聞かされるから、見ていないだけにつらいわけですよ。エノケンさんは少なくとも昭和三十年代ぐらいまでは神様みたいにいわれましたよね。
【澤田】 大阪でいうと、エンタツ・アチャコですよ。「おれは法善寺の花月でエンタツ・アチャコを見た」という人には、私はもう何も言えません。(笑)心の中で「中田ダイマル・ラケットのほうがずっと面白いぞ」って反発しててもね。だけど、エンタツ・アチャコの場合は落語全盛だった演芸界を漫才が変えていく、染め替えていくという、その様子をリアルタイムで見ていくのは堪らなく面白かったでしょうね。
【高平】 新たな芸能ができる様を目の当たりにする機会なんて滅多にないですから。
【澤田】 僕は、戦前の寄席も映画館も劇場も本当に知らないから、先輩から話をいろいろ聞いたんですよ。劇場の思い出ってそこに誰が出ていたかという記憶と共に出てくるんですね。映画とそれを見た映画館を一緒に覚えているようなものです。だから資料を調べて劇場の位置やどういう芸人がいたかということだけ知ってても仕方がないんですね。誰がどの劇場に出ていたということで時代がわかるんですよ。もっともっと聞いておけばよかったという悔しさと、どうせ質問が深く入っていけなかっただろうという諦めがありますね。


 ●喜劇俳優いろいろ
【澤田】 それと、芸人はいつの時代を見たかでみんな印象が違うから気をつけないと。
【高平】 森繁久彌さんなんかそうですよね。
【澤田】 映画に出演した最初の方から見て知ってますけど、この人ぐらい役柄が変わった人はいない。あれよあれよという間に変わっていく。すごい俳優ですよ。戦前はいろんなすごい人がいたけど、戦後は森繁さん一人が特別じゃないですか。
 最初の印象はいいかげんな男。悪い男と言ってもいいけど、要するにインチキなわけです。『三等重役』(昭和二十七年、東宝)なんかもう社長をだまくらかすし、『夫婦善哉』(昭和三十年、東宝)でいいかげんさが頂点に達します。

【高平】 『スラバヤ殿下』(昭和三十年、日活)なんか、もうめちゃくちゃでおかしかったですね。
【澤田】 僕はそういう軽妙な森繁さんが好きだったから、いい映画や偉人伝のたぐいは見る気がしなかった。
【高平】 「社長シリーズ」の森繁さんとのり平さんも面白かった。のり平さんの息子の小林のり一から聞いたんですけど、社長室での二人のシーンになると、カットせずにだらだら撮るんですって。すると、いきなりポケットから手帳を出して、「二次会はここで、パッと」って言うのは全部アドリブなんですってね。森繁さんもまた面白がってやり返す。その部分で「社長シリーズ」は面白くなっちゃったんですね。
【澤田】 当時の映画としては珍しいですよね。そういう撮り方は知りませんもの。
【高平】 松林宗恵さんっていうのは、そういう意味では、いい監督だったんですね。
【司会】 ほかに印象に残る人といえば誰ですか。
【高平】 トニー谷さん。『家庭の事情』(昭和29年、宝塚映画)シリーズの映画が面白かったですね。トニーさんは、『てなもんや三度笠』にやっぱりゲストなんかで結構出ていたんじゃないですか?
【澤田】 そうですね。強烈な個性を持っていて、ものすごく役作りに熱心で。あと玉川良一さんとか、平気で自分の弱点をさらけ出して笑いがとれるからコメディの敵役として欠かせなかった。コメディアンは笑われる代わりにいい人と思われたいから、憎まれ役に徹する人は貴重でしたよ。こういう人がいないと主役が引き立たないんです。
【高平】 南利明さんっていうのは、『てなもんや』名古屋弁で花開いたんですよね。脱線トリオでいちばんじみだったのに。
【澤田】 優しい個性で大好きだったのがマチャアキのお父さんの堺駿二さん。本当にいい人でした。番組のゲストで出てもらっても、敵役とかそういう役を振れないんですよ、人の好さが出ちゃうから。(笑)柳家金語楼さんや森川信さんでも、善人が実は殺人鬼だった、みたいな役をやってた映画がありますが、堺駿二さんだけは一本もないのと違うかな。
【高平】 『歌まつり満月狸合戦』(昭和三十年、新東宝)かな。ひばりさんと雪村さんがでてた映画ですよ。斎藤寅次郎監督の。それで、トニー狸と堺狸というのでコンビで出ていました。これ見たのが小学校三年ぐらいで、もうやたらにおかしくて何べんも見たな。
【澤田】 堺駿二さんはあれだけのスターなのに、自分がメインの役でなくても気軽に新人の相手役を引き受けてくれたりと、いろいろ助けてもらいました。早く亡くなられたから忘れられてますけど、京都の撮影所全盛のころのポスターには必ずあの奥目の人なつこい顔が載っている。映画出演リストだけでも膨大な量になると思いますよ。だれか調べてくれないかなぁ。


 ●コメディの系譜
【高平】 ぼくら、子どものときはもうコメディアンってみんな浅草だと思っていた。だけど、決してそうじゃなかったですものね。由利さんと浅草がどうのって芝居の話をした時、「おれは浅草の人間じゃない。新宿だ」って言ってましたね。
【澤田】 「浅草芸人」というのがステータスだった時代があって、浅草に誇りを持っている人が大勢いたからじゃないですかね。由利さんが活躍していた時期はまだエノケンさんがいたから。
新宿にはムーランルージュがあったというけれど、僕が東京に出てきた三十年ぐらい前は、浅草も新宿もそんなニオイのする街ではなかった。縁あって新宿でコメディシアターという小さな劇場を作ったんだけど、そこが昔ムーランのあったところだときいて嬉しくてやっちゃったんです。
 PCLの最初の映画『ほろよひ人生』(昭和八年)って、小田急のプラットホームが舞台で、そこでエビスビールを売っているんですよ。ポスターも全部エビスビールで。PCLに出資していたのがエビスビールの社長だったというから、スポンサータイアップ映画の第一号じゃないかな。

【高平】 そういえば、エビスビールのポスターってよく見たわ。ああいうもので映画の思い出が残るんですね。
【澤田】 エノケンのPCL映画第一作『エノケンの青春酔虎伝』(昭和九年)でもビアホールでの乱闘シーンがあって、ラストはビアホールでの大パーティ。
【高平】 小学生のときの新宿での軽演劇というのは、石井均さんだった。のぼりをよく見ましたよ
【澤田】 松竹文化演芸場でしたか、地下にあった。ここに行ったことはないんですけどテレビ中継をやっていたんで大阪で見ていました。石井均さんと、それから財津一郎さんがいつでも学生服を着て出ていた。それがものすごく印象に残っていて、財津さんに後年会ったときに、「何でおまえ、ずっとあの格好だったんだ」って訊いたら、「自分の持っている服で役が決まった」って言うんですよ。(笑)学生服しかなかったから。
【高平】 もう一つの芸どころ、浅草になると全盛時代とか、ストリップの全盛時代なんかのコメディアンなんていうのは、ぼくらは話でしか聞かないから分からないですよ。
【澤田】 僕らの世代では間に合ってませんわ、全盛期には。_平さんご存知ですか?東八郎と石田英二と池信一で「丁稚どんトリオ」ってやっていたってやつ。
【高平】 そんなことやってたんですか。石田さんって東宝ミュージカルの常連で、いい役者でしたね。
【澤田】 『番頭はんと丁稚どん』って花登筐の大ヒット公開コメディがあって、放映された翌週には同じストーリーで浅草でやったんですって。その噂が大阪に聞こえてきて、大阪から見に行った人がいるんですよ、浅草の東洋劇場まで。「おもしろいよ、あれ」って言ってました。一度見ただけでやれるというのはすごい達者なヤツがいるんだと思った覚えがあります。
【高平】 たくましいなぁ。
【澤田】 戦前はそんなのが多かったんじゃないですか。テレビがないわけだし。淀橋太郎さんに聞いたんですけど、大阪の弥生座で森川信さんの一座の座付作家でいたころ、昭和九年から十一年ごろで「ピエールボーイズ」ってバラエティーが人気だった。週一回で演目が変わるから大変で、ネタに詰まると浅草へ行って芝居を見て、帰りの汽車の中で書き上げてすぐ舞台にかけた。著作権って考えはないし、テレビもないからそういうこともできた。
 二代目の博多淡海さんが東京へ出てきて浅草で大変な人気をとって、大阪の朝日座でかけた演目が『お祭り提灯』。そしたらクレームがついたんです、中座に出ていた渋谷天外さんから。それは曾我廼家五郎の芝居だって。淡海さんは「これは親父の初代淡海譲りの芝居だ」と頑張ったんで新聞沙汰になっちゃった。これは初代淡海が道頓堀で見て、それを博多に帰ってやったのが十八番になったんですね。以後、一堺漁人(五郎のペンネーム)作、木村平蔵(初代淡海の本名)脚色で「筑前仕立」と断りを入れてこの芝居をやってました。
 でも、テープレコーダーもない時代、演出も座長が口立てでやるわけですから、よほどよく芝居や笑いがわかっている人でないとできませんし、いっぺんだけ見て人の芝居を盗むなんてすごい芸当ですよ。「丁稚どんトリオ」だって生放送のテレビを見ただけでやってしまうのだから本当にすごいですよ。

【高平】 そういえば『落劇』なんてテレビでやっていました?関西でも。
【澤田】 知らないなぁ、東京だけでしかやってない番組の方が多かったからね。どういう番組?
【高平】 昔々亭桃太郎さんと桂小金治さんで、毎週月曜日の八時半からTBSで、全部落語のネタをやるんですよ。その前の時期だったと思いますけど、同じような時間帯でやっていた『のり平のシャープ劇場』っていうのが大好きでしてね。
【澤田】 それは大阪でも見られました。日本テレビの番組の方が多くて、TBSの番組はほとんど来ていなかった。桂小金治の面白さは映画でしか知らないんですよ。フレッシュで、粋でしたね。
【高平】 テレビでは、落語をやらないコメディアンのはしりみたいな。でも、落語劇ですからね。


 ●放送での浪曲
【司会】 演芸のほうではどうですか。
【澤田】 僕の東京の師匠で小菅一夫という人がいまして。
【高平】 放送関係の方ですか。
【澤田】 そう。朝日放送東京支社の嘱託で、全盛だった浪曲のラジオ番組を制作していたんです。落語にも詳しくて大阪の漫才と組み合わせて全国へ流すラジオ番組を制作していて、大阪のパートは僕が担当するというので東京演芸の世界に引き回してくれました。このあと『浪曲歌合戦』という、歌謡曲の歌詞を浪曲の節マネでこなすという素人参加番組の担当になったので浪曲の勉強もすることになったんですよ。
 浪曲のナンバーワンはなんといっても広沢虎造で、軽妙な節回しとタンカの面白さでラジオでは大変な人気者でした。それに広沢菊春の「落語浪曲」も評判だったのですが、小菅さんはこの二人と懇意で、ラジオ放送のための脚色も全て小菅さんがやっていて、虎造の浪曲の権利の管理を奥さんから任されてました。

【高平】 そこまで信用されてたんだ。
【澤田】 放送は時間に入れないと成立しないから、どこをカットするかなど前もって直しておかないと録音できないということもあって、浪曲作家は昔からあるネタでも本人の持ちネタでも脚色することになる。わからない言葉や放送できない言葉をカットするという作業がいるわけです。
【高平】 かなり深く浪曲がわかってないとできませんね。
【澤田】 そうなんですよ。このときに印象深い思い出があるんです。「浪曲歌合戦」やってるときに虎造さんが大阪に来るって話があって、虎造さんをゲスト審査員にしてその回は虎造節のマネ一色でという企画を考えたんですね。この番組の審査委員長は小菅さんだったから小菅さんに提案したら「たぶん無理だろう」って。それでも粘って「じゃ私が直接頼みますから小菅さん立ち会って下さい」って無理矢理頼んで、虎造来阪の時に楽屋へ行って企画の説明をしたら「おい若えの」
【高平】 浪曲語ってるときと同じトーンで(笑)
【澤田】 タンカそのままの声で(笑)、「お前さん、何かい。俺の節マネをしている番組に出ろって言うのかい」
とにかく謝って楽屋から逃げ出した。放送の仕事四十年以上やってるけど、あそこまで冷や汗が出た経験はないですよ。あとで小菅さんから「いい度胸してやがる」って虎造さん言ってたよ、って言われたけど、慰めのためのウソだと思いますね。

【高平】 脚色は得意ですからね。
【澤田】 講談から浪曲を作るという作業も昔は浪曲師本人がやっていたけど、仕事が増えたら間に合わないから作家に頼るようになる。ここでも浪曲作家が必要になってくるんです。浪曲の人気はすごくてレコードが売れたから著作権という考えが早く生まれたんですよ。いまテレビで過去の映像や写真に金がかかるようになったのも、テレビ五十年で過去を振り返る番組が増えたからですね。盛んな芸能には金が集まるようになっているんですよ、今も昔も。


 ●芸能の記憶、町の記憶
【司会】 芸能の記憶や、町の記憶といったものが、まとまった形でみられることが今は全くないと言っていいですよね。それをなんとか拙い形ではあっても、現在持っている芝居小屋や寄席、映画館なんかの位置と、そこで演っていた芸能といった情報を立体的に、今日のコンピュータソフト、エンターテインメントのソフトといったデジタルで表現した、こういうものをどういうふうにご両者は見られますか。
【高平】 歴史って重層的だから、こういうメディアでこういう見せ方ができるとわかりやすくなりますよね。紙ではできない表現方法ですから。
【澤田】 今から二十年ぐらい前、多くの企業が徹底的なコンピュータ化を進めていったんです。特に管理職に就いていた中年の人たちは勉強のために家でも買った。その年齢層が次々とリタイアして、家でゴロゴロしている。その世代の人たちが楽しめるソフトとして『古今東西噺家紳士録』や『江戸東京芸能地図大鑑』はピッタリですね。一人ずつ思い出が違うから楽しみ方もそれぞれ違っているはずです。映像ソフトではこういうわけにはいきませんよ。
それに自分の思い出をソフトに書き加えられることができるというから、また面白いですね。

【司会】 双方向のメディア、インターネットがまさにそうなんですよ。
【高平】 だからこういうものがあるっていうのを、そういう人たちにまず知らせることですね。
【澤田】 僕はアナログ人間で、このソフトも女房に渡して見せてもらっているという情けない状態ですが、素材はいっぱいあります。私の持っている資料もどんどん取り込んでいってもらえれば嬉しいですね。
【高平】 今までなかったですから。データベースで、エンターテイメントで、しかも中高年向けというのが。「こういうものがあればいいなぁ」と思っていた人はいっぱいいますよ、絶対。ぼくらだけじゃない。



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