しっちゃかめっちゃか志ん生
文:小島 貞二
 
笹塚へ移転 〜権太楼と“貧乏競争”スタート
 
 家賃がたまりすぎて、もう本郷の家に、これ以上居すわるわけにはいかない。どこか安いところはないものかと、あちこち捜していると、仲間の柳家権太楼(本名北村市兵衛、昭和30年没、58歳)がやって来て「アア、家ならオレも捜してるんだ。一緒に捜そうや」ということになった。暇を見つけてはあちこち歩く。
 
 志ん生演じる「黄金餅(こがねもち)」という落語の中に「下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下ィ出て、三枚橋から上野広小路へ出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ堀さまという鳥居さまというお屋敷の前をまっすぐに、筋違御門から大通りィ出まして、神田の須田町へ出て、新石町から鍛冶町へ出まして、今川橋から本白銀町へ出まして、石町へ出て、日本橋を渡りまして、通四丁目へ出まして、あれから京橋を渡りまして、まっすぐに新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、新し橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西の久保から飯倉六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町…麻布絶口釜無村の木蓮寺へ来た時は、ずいぶんみんなくたびれた。あたし(演者)もくたびれたよ…」というのがあるが、そういう東京の真ん中から郊外へも足をのばし、やっと見つけたのが、新宿から京王線に乗換えて行く笹塚の駅の近くである。
 
 今はすっかり住宅地となっているが、関東大震災間もなくの大正14年(1925年)のそのころは、あたり一面畑とヤブばかりで、その畑の中に新しい家が、ポツンポツンと建っている。東京で焼け出された人達を見越しての建て売り住宅である。
 
 早速交渉をすると、表通りのブリキ屋の、人のよさそうな家主が「ようがしょう」と、二つ返事で貸してくれた。うまい具合に、間取りも家賃も全く同じ家が二軒ならんでいる。志ん生と権太楼が、両隣で住むことになったのである。
 
 志ん生はもう2人の子持ちであるが、権太楼はまだ1人者。ここで両家で貧乏の競争が始まる。