| しっちゃかめっちゃか志ん生 |
| 文:小島 貞二 |
| 関東大震災(2) 〜浴衣に三尺締めて一席 |
| “第二の関東大震災近し”というのが、近ごろショッキングな話題となっている。あの半世紀前の、大正12年の関東大震災を志ん生は東京・本郷で体験した。 |
| 「いやア、すげえのすごくねえのって、こないだの戦争の、あの空襲のときと、ドッコイドッコイてえとこでしょう。空襲に丁と張る人がありゃア、あたしゃアね、震災のほうへ半と張りますよ」(志ん生)というくらい、ひどいものだった。 |
| 本郷の家は、いくらかかしいだが、幸い焼けなかったので、焼け出された仲間たちが、「しばらく頼むよ」と押しかけて来た。まず上方から来ていた林家染団治(のち漫才に転向)がその日のうちにやって来て、2日目には師匠(六代目馬生、のち四代目志ん生)が一家7人に、犬まで連れてころがりこんで来て、二階を占領した。 |
| たべものの世話をするのが、何よりの苦労で、二階の天井裏に非常用にたくわえてあった正月のカビの生えたモチをたべたときのうまさは、どんな山海の珍味より上だったという。 |
| 東京のあちこちにあった寄席はあらかた焼けて、芸人の多くも焼け出された。五代目の麗々亭柳橋は本所の被服廠(しょう)あとでなくなり横浜で興行中の横山エンタツ(大阪の漫才)はフロ屋の煙突が倒れて下敷きになり鼻をつぶしたし、上方落語の桂小文治は、一番列車で大阪へ逃げ、向こうでいち早く「東京震災の記」というルポタージュ落語を一席、レコードに吹きこんだ。 |
| 東京残留の落語家たちは、焼けのこりの寄席を借りて興行したが、芸人、なりふりをかまうゆとりはなく、ひどいのは印半てんで出て「えー、あたしも焼けちゃったんです」とやると、ドーッと受けた。ふだん貧乏の志ん生は、これ幸いとばかり、ヨレヨレの浴衣にナワみたいな三尺を締めて、それを高座着で通したという。 |
| 以上、志ん生の“震災体験記”のほんのひとコマであるが、考えてみると当代活躍する落語家の大半は、この関東大震災(1923年)以降の生まれなのである。 |