しっちゃかめっちゃか志ん生
文:小島 貞二
 
改名 〜32年間に16回も
 
 志ん生は落語家になって16回の改名をくりかえしたはなしは有名だ。
 
 まず三遊亭朝太から円菊(ここで二ッ目)そして古今亭馬太郎、全亭武生、吉原朝馬、隅田川馬石、金原亭馬きん(ここで真打)古今亭志ん馬。
 
 ここでちょっと落語界をしくじることがあって講談師となって小金井芦風、またはなし家恋しとカムバックして古今亭馬生。それから柳家東三楼から柳家ぎん馬、柳家甚語楼から古今亭志ん馬(二度目の志ん馬)そして金原亭馬生(二度目の馬生だが亭号が違う)を経て、昭和14年に古今亭志ん生の五代目をつぐ。
 
 落語界入門が17歳(明治40年)で、志ん生襲名が49歳(昭和14年)だから、この間32年。2年に1回のわりの改名ということになる。こんな例は長い落語界にも類を見ない。今もそのうちのいくつかが息子や弟子たちによって継承されている。
 
 その武生時代のある大みそか、師匠(馬生)から迎えが来て、何事ならんと出かけてみると「お前なァ、宇都宮の茶目平ってたいこ持ち、知ってるかい?」ときかれた。「へえ、もとはなし家で、兄弟分でした」と答える。
 
 「そうかい、そうだろうなァ。実ァ、その茶目平から、おまえのところに羽織がとどいているんだ。ほんというと、今月の初めにとどいたんだが、私あての手紙に、武生てえなァズボラでいけねえ。いま羽織を渡したりすると、しめたとばかり伊勢屋(質屋のこと)へ運んじまうに違いねえから、どうか大みそかに渡してやっていただきたい。そうすりゃァ元日から着て、高座にも張りが出るだろうから…と書いてある。そういうわけの羽織だ。さァ、受けとるがいい」
 
 これには武生もジーンと来て、しばらく家から出られなかった。この茶目平は、下谷御徒町のかしいだ二階で一緒に暮らしたあの清朝である。のち志ん生は彼を高座にカムバックさせ、時分のあとの馬生(八代目)をゆずった。全亭武生の芸名は「おまえさんは全体に無精でいけねえ」としかられたところから出たという。