しっちゃかめっちゃか志ん生
文:小島 貞二
 
払えぬ家賃 〜荷物がないから簡単にドロン
 
 志ん生に貧乏はつきものであるが、かなり落語家として名が出てからも貧乏だったから、若いころの貧乏はことさらだった。
 
 昔は東京でも貸し家や貸し間はいくらでもあった。貸し二階が一番安直で安い。その最も安いところをねらって、友達と二人で借りる。敷金もないから「あたしたちは寄席に出てますと日銭が入ります。敷金と家賃を毎晩割って納めますから、一つ貸してくださいな」と借りる。日割り計算すると、一人頭5銭か6銭だが、食うに精一ぱいだから、とてもそこまで手が回らない。しばらくすると居づらくなってドロンをきめ込む。荷物といっても風呂敷一つで足りる。布団もカヤもないのである。
 
 “本所に蚊がなくなって年の暮”という川柳もあるように、昔の下町は蚊の名物で、春から秋までカヤを必要とした。だから夜は一人で寝て、もう一人がウチワであおっている。時間がくると交代ということになる。
 
 毎晩これではしまらないから、吉原へひやかしにゆく。夜っぴいてひやかして歩いて、朝になるのを待って、ゼニのありそうな友達のところへ押しかけて、朝めしをゴチになるというようなこともよくやった。もっとも、あべこべに押しかけてくる友達もいたというから、みんな貧乏だったわけだ。
 
 その時分、志ん生は朝太といい、小円朝の弟子の清朝というのと大の仲よしで、よく共同生活をした。下谷の御徒町の豆腐屋の二階を借りた時、家賃も安いが家もひどい。寝る時は座敷のまん中へ寝る。寝相もさほど悪いわけではないのに、朝になると2人とも隅っこにかたまっている。毎晩同じことを繰返すので、おかしいと思ってしらべてみると、家そのものが大きくかたむいていたのである。
 
 「チェッ、バカにするねェ。船だって、そうそう一方にばかりはかしがねェや」と妙なタンカを切って、そこをドロンした。まるでゼニがなく、清朝がふんどしをはずして質屋へもってゆき、あまりきたないので断られたのもその時分である。