しっちゃかめっちゃか志ん生
文:小島 貞二
 
少年時代 〜10で飲む打つ15で蒸発
 
 古今亭志ん生の少年時代のおはなしである。
 
 「早死にした兄貴達も、親ゆずりなんですが、みんないずれ劣らぬ道楽者でしたが、あたしとくるてえと、それに輪をかけた道楽者で、10歳(とお)にもならないうちにもうバクチは打つ、悪さはする。悪い友だちが大勢いるから、遊んで歩いて、親のそばになんぞいたァこたァない」
 
 「あたしは、13〜14でもう酒ェくらっていたんですが、酒屋でそんな年ごろの子供に、平気で酒ェ売るくらいですからしようがない」
 
 ともに志ん生自伝「びんぼう自慢」の一節である。今なら毎日学校から呼び出されて、親が大目玉を食うケースである。昔だって同じことで、下谷の小学校を卒業当時は四年制)寸前に素行不良で退学させられてしまった。
 
 どこへ奉公にだされてもダメで、長くて1ヵ月、短くて3日。時には連れて行った親や兄より先に家へ戻ったというからひどい。「海の向こうなら帰れないだろう…」というので、朝鮮の京城(現在の韓国ソウル)まで小僧に出されたことがある。向こうに着いてダマされたことがわかると、途端にハンストをきめ込んで雇い主をあきれさせ、一人で東京まで戻ってきた。
 
 15歳の時、おやじが命の次に大事にしているキセルのとびきり上等なのを曲げて(質に入れて流すこと)それがバレたからさあ大変!おやじは昔、徳川幕府の旗本でヤリの名人。そのころ巡査をしていたから堅い一方。「家系の名折れ、成敗いたしてくれる!」と長押(なげし)のヤリをとって、リュウとしごいて本当に突っ殺しかねない勢いに、志ん生はユカタをわしづかみにして横っ飛び。そのまま生涯家へ戻らなかった。今様にいう“蒸発”で、それも思いきり長期にわたる。
 
 といって親を忘れたわけではない。のち天下の志ん生となって、功成り名をとげて昭和42年(77歳の時)菩提寺の文京区小日向の還国寺(かんこくじ)で、両親とともに先祖を供養し、不幸をわびて新しい墓を建てた。志ん生もまたそこに眠る。