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2005年8月5日〜8月11日

英国グラモフォン 明治36年発売
 一般的に『士族の商法』と言えば、『御前汁粉』とか『素人鰻』に代表されるが、要するに明治の維新で、侍が苗字帯刀を捨てて俄商人となり、結局は付焼刃でうまくいかないといった筋立てであれば、この題名は何にでも通用する訳であるから、これは当時のこういった種類の噺の内の一つであったとも推定出来る。ここに登場する若旦那が、<始め壮士として政談演説のような事をやっていた>というむらく自身の経歴が表れているようで興味深い。(都家歌六)

本名

出身
活躍年代
出囃子
永瀬徳久
安政6年〜明治40年1月6日
未詳
明治17年頃〜明治40年
改名と師匠 三遊亭圓喬(明治17年頃.圓生4)
笑福亭圓寿(明治24年8月)
永瀬徳久(明治25年)
三遊亭圓相(明治26年8月)
全亭武生(明治28年1月)
六代目朝寝坊むらく(明治31年.圓生4)

明治17年頃入門。
  はじめ東京で壮士として政談演説のような事をやっていたが、のちに落語家となり、関西へ行って三遊亭圓喬、圓寿などと勝手に名乗り、結構人気があったという。明治25年東京へ戻り、本名の永瀬徳久で寄席の高座へ上がった。翌26年まだ若かりし頃の後の浮世節の名人立花家橘之助と手に手を取って名古屋へ駆け落ちをした。その後関西へ行き、また東京へ戻って全亭武生から明治31年六代目朝寝坊むらくを襲名。当時これも若かりし頃の文豪永井荷風が明治32年このむらくの門人となり、夢之助を名乗っていた。ところが半年位たったある日、九段の寄席で前座として出演している時に父親の使用人に発見され、連れ戻されてしまったと伝えられてる。
レコードで聞く限り、お世辞にも噺のうまい人とは思えないが、淡々とした明るい調子で、壮士上がりの演説口調といったところもたしかに感じられる。明治39年の11月頃より肺病に罹って、翌年の1月6日、僅か49歳の若さで逝った。(都家歌六)



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